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津山市内の国指定文化財

 
 平成28年7月25日付けで、新たに旧苅田家住宅が国の重要文化財(建造物)に指定され、津山市内にある国指定の
 重要文化財は19件となりました。
 それぞれの
文化財の詳細につきましては、下のタイトルをクリックしてください。 また、冊子「津山市の文化財」
 (平成20年3月刊行 収録データは平成20年3月1日現在の指定分まで)にも収録しています。



               
              
   国指定文化財一覧表はこちら[6KB PDFファイル]
   登録有形文化財 登録記念物 重要伝統的建造物群保存地区一覧表はこちら[118KB PDFファイル]



 

中山神社本殿

 名 称   中山神社本殿 (なかやまじんじゃほんでん)
 区 分   国指定重要文化財(建造物)
 所在地   津山市一宮695番地
 所有者   中山神社
 指定年月日 大正3年4月17日

中山神社本殿   中山神社は、『日本三大実録』貞観2年(860)正月戌寅条に「美作国正五位下中山神に従四位下を授く」とあるのが史料上の初見であり、同6年(864)8月官社に列せられ、同17年(875)4月には正三位に昇叙された(以上、同書)。
   『延喜式』神名下に苫東郡中山神社〈名神大〉とあり、『今昔物語』にも「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」とある。『梁塵秘抄』巻2に「関より西なる軍神、一品ちうさん」とあるが、この「ちうさん」を本社にあてる説もある。建久2年(1191)10月の長講堂所領注文に「美作一宮」とあるので、平安時代末には美作国一宮となっていたことがわかる。『一遍上人絵伝』第3段には、弘安9年(1286)春一遍が美作一宮に詣でた様子が描かれている。
 『作陽誌』によると、戦国時代の天文末年出雲から進入してきた尼子晴久は、中山神社に拠って抵抗する苫田郡の国人らを制圧するため、本殿以下に火を放った。その後晴久は永禄2年(1559)社殿を再興したという。一方、『中山神社縁由』は永正8年(1511)失火全焼、永禄2年尼子晴久の再建、『一宮御葺替祭式旧録帳』は永正8年出火、天文6年(1537)起工、永禄2年再建を記す。さらに『一宮社殿書上』には天文2年(1533)美作西郡守護代中村、大河原両氏の紛争により再出火のことを伝える。このように、永禄2年の尼子晴久による再建については諸説一致し、かつ『作陽誌』にこのときの棟札を引用するのでほぼ確実とみてよいが、それ以前の火災については諸説あって一定しない。
   その後、文禄4年(1595)宇喜多秀家が東南条郡一宮村のうち10石の社領を寄進、慶長6年(1601)小早川秀秋も同じく10石の社領を寄進した。津山藩時代には慶長9年(1604)森忠政が30石ついで70石、寛永12年(1635)森長継が10石を加増、松平宣富が元禄11年(1698)15石をそれぞれ寄進した。廃藩後の明治4年(1871)国弊中社に列格したが、戦後社格の制が廃止された。
   現本殿は永禄2年(1559)尼子晴久によって建立されたもので、棟梁は伯耆の中尾藤右衛門、大工は宗五郎である(『作陽誌』)。正面3間、側面3間の正方形(方10.45m)で、単層入母屋造妻入、1間の向唐破風造の向拝を付す。屋根は桧皮葦で大棟には千木と5本の堅男木をのせている。妻飾りは虹梁大瓶束式、軒は二軒繁垂木である。柱はケヤキの総円柱。組物は出三斗で斗供間の中備には彩色彫刻で飾った蟇股を入れている。腰廻りの四周には擬宝珠高欄の付いた縁をめぐらし、その縁の組物は三斗で斗供間にも蟇股を用いている。なお、向拝と緑は様式的に後補とみられるが、現存する棟札に寛保2年(1742)修理の記録があるので、この時の修補と考えられている。
 津山市を中心とする美作地方には、中山造と通称される独特の神社建築が分布している。それは正面3間・側面3間の正方形で、入母屋造妻入で向唐破風造の向拝を付す本殿の様式で、中山神社本殿を最古の例とする。中山造は津山市総社本殿、同高野神社本殿、同徳守神社本殿、鶴山八幡宮本殿をはじめ、柵原町、建部町、勝山町などに10数例が知られている。このうち、中山神社本殿が永禄2年に建立された以外は、すべて江戸時代の建築で、なかでも津山森藩第2代長継の執政期に集中している。中山造の源流は詳しくは不明だが、切妻造妻入の出雲大社の影響を受けて成立したらしい。そして、津山森藩の統一的宗教政策によって領内の美作地方に普及したものと思われる。

■参考文献
・『中山神社資料』中山神社社務所、1923年
・三好基之「律令時代」(『津山市史』第1巻、原始・古代、津山市、1972年)
・熊谷保孝「中山神社」(『式内社調査報告』第22巻・山陽道、皇学館大学出版部、1980年)
・熊谷保孝「中山神社の創祀と発展」(『律令国家と神祇』第一書房、1982年)
・細見啓三編『津山の社寺建築』津山市教育委員会、1988年

 

総社本殿

 名 称   総社本殿 (そうじゃほんでん)
 区 分   国指定重要文化財(建造物)
 所在地   津山市総社427番地
 所有者   総杜宮
 指定年月日 大正3年4月17日

総社本殿   総社は、亀甲山に鏡座し、古くは「正一位総社大明神」と称した。社誌によれば、その祭神は大巳貴命である。そして左相殿には中山大神宮鏡造命を祭り、右相殿には高野大明神鵜茅葺不合命を祭る。更に、左側の内宮には美作東半国の諸社、右側の内宮には西半国の諸社を祭るという。
   社伝によれば、鎮座は古く欽明天皇の25年(564)と伝える。その当時は、現在地の西約1kmの地に祭られていたが、慶雲4年(707)今の亀甲山に移ったという。その後、和銅6年(713)美作に国府が開かれるに当たり、中山神社と高野神社を相殿に祭り、国内の諸社を東西に分けて祭るに至って、一国の中心として美作の総社と称したと伝えられる。
   古くは、9月9日の重陽の祭事には、一宮中山神社・二宮高野神社から神輿が出され、中山神社の神輿は小原と総社の境にある丸芝で、高野神社の神輿は田中と総社の境の丸芝でそれぞれ総社からの迎えを待ち、神饌が奉じられた後、総社の客社に着御することになっていた。また、他に香々美村大宮大明神、横野村公方大明神、林田村大住大明神、田野村天劔大明神、小原村右礼神大明神、上河原村内宮大明神、富川村徳守大明神、野田村●(※1)月大明神の8社から御幣が納められていた。
   本殿は、社伝では永禄5年(1562)に毛利元就が再建したものと伝えるが、総社に残る棟札では、最も古いものは元和8年(1622)に森忠政が「正一位惣社大明神霊社」を造立した時のもので、その詳細は不明である。現在の本殿は、明暦3年(1657)に森家二代藩主長継が再建したもので、棟札も残る。その棟札によれば「正一位惣社宮本社」を「再建立」とあり、奉行として石原小右衛門政次、高橋三郎衛門政則、大工棟梁として瀬尾源七政直の名前が知られる。
   社殿は東向きに建てられており、昭和初年に建 てられた拝殿と釣殿が本殿前方にあり、本殿の周囲は透かし塀に囲まれる。本殿はいわゆる中山造の建築で、大型の三間四方平面に向拝を付け、柿葺の屋根は入母屋造妻入とする。これは中山神社本殿の形式にならったものとみて間違いない と思われるが、しかし、単なる模倣ではなく様々な相違点も見られる。両社を比較してみれば、総社本殿は全体に木柄が細く、向拝の出も少ない。更に、向拝について は屋根を向唐破風としながらその上部に両下げ造風の屋根を重ねた二重屋根としている。また、棟飾りに千木や堅男木が見られず瓦積みとしている。向拝の出が少ない点に関しては、中山神社の現在の向拝が寛保2年(1742)に完了した修理の時の ものであることから、逆に向拝の出と側面前端間とを等しくしている総社や高野神社のほうが古式を伝えている可能性もある。 本殿内部は、正面の1間通りを外陣として、残りの3間×2間を一室の内陣としている。天井は、外陣の天井は格天井、内陣は棹縁天井として区別している。本殿は二重の基壇上の亀腹の上に建てられており、軸部の柱は全て円柱を用いるが、その下端に は十文字の溝が彫られており、礎石との接触点に生じる虫害や腐敗等から柱を守る工夫であると伝えられている。
 ※1 山かんむりに施 


 ■参考文献
 ・矢吹金一郎校『新訂作陽誌』作陽古書刊行会、1912年
 ・細見啓三編『津山の社寺建築』津山市教育委員会、1988年
 ・杉山●(金へんに差)鏡編『国宝美作総社宮社誌』縣社総社々務所、1936年

 

鶴山八幡宮本殿

 名 称   鶴山八幡宮本殿 (つるやまはちまんぐうほんでん)
 区 分   国指定重要文化財(建造物)
 所在地   津山市山北159番地
 所有者   鶴山八幡宮
 指定年月日 昭和55年5月31日

鶴山八幡宮本殿   当社の祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫(たまよりひめ)で、社伝によれば貞観元年(859)宇佐八幡宮から勧請されたという。また、嘉吉年間(1441~44)鶴山に城を築いた山名忠政(やまなただまさ)が城の鎮守・源氏の氏神として勧請したとも伝わる。
 慶長9年(1604)森忠政(もりただまさ)が城地を鶴山に決定した時、当社はその山上にあり、築城に際して南方の覗山(のぞきやま)に遷宮された。しかし、同13年には城の北西・不知夜山(いざよいやま)(現在地)に再遷される。これについては、八幡神の神託によるものと伝わるが、社地周辺の丘陵部を牽制するという津山城下の縄張り上の配慮もあったと考えられる。
 現在の本殿は、寛文9年(1669)森長継(ながつぐ)によって建立されたもので、棟札が現存する。『作陽誌』によれば、慶長年間に造営、寛永12年(1635)南向きを東向きに改め(ともに棟札あり)、寛文8年に修繕して翌年落成とあり、慶長建立の本殿が存続しているかのような記述であるが、寛文の棟札には「奉再建立」とあって、建て替えられていると考えられる。
 形式は、方三間、妻入(つまいり)の入母屋造(いりもやづくり)に向唐破風(むかいからはふ)の向拝(こうはい)を設ける中山造(なかやまづくり)で、屋根は栩(とち)葺(元来は檜皮(ひわだ)葺)である。特徴はその装飾性にあって、軒の組物(くみもの)を三手先(みてさき)とし、各材先端部の獅子・象・龍、向拝部分の牡丹の彫刻に極彩色を施し、殿内にも極彩色を用いるなど、華麗な造りである。長継は、明暦から寛文期(1655~1673)に総社・高野・徳守の各社殿をいずれも中山造で建立しており、当社殿がその最後に位置する。その間に発展していた装飾性がここにおいてその極致に達したものと思われる。この時期は、ちょうど城下町の完成期と重なっており、社殿造営に力を注ぎ込む余裕が生まれたのであろう。なお、天明7年(1787)・文政5年(1822)に修理が行われており、明治15年(1882)には屋根が大破、修復資金不足のためやむを得ず檜皮葺から栩葺に改めたという。
   藩主森氏は寛永5年(1628)小田中村の内20石を社領として当社に寄進、同12年に30石加増されて合計50石となったが、改易にともなって廃止された。松平氏は宝永4年(1707)から毎年寄附米を10俵ずつ給付していたが、領地半減に伴い享保12年(1727)からは5俵ずつとなった。寛永13年には神宮寺として真言宗・正宝山威徳寺が設けられ、社領の内15石を与えられて(森氏時代)社務に参与していた。
   当社は森・松平両氏の氏神として厚い信仰を受け、年頭・歳暮及び8月の祭礼時には御小納戸が藩主の代理で参詣して初穂を納めており、また藩士からも文武の祖神として崇拝されたようである。
   ちなみに、鶴山東麓で宮川沿いに建つ千代稲荷(せんだいいなり)神社は当社の摂社であり、当社と同様の移転を経験するが、その後も移転を重ねて天和3年(1683)現在地に定まった。

 ■参考文献
 ・「森家先代実録」(『岡山県史』第25巻・津山藩文書、岡山県、1981年)
 ・『新訂作陽誌』作陽古書刊行会、1913年
 ・大谷家文書「八幡神社御由緒調査書」
 ・同「郷社八幡神社誌」
 ・細見啓三編『津山の社寺建築』津山市教育委貝会、1988年

 

岡山県立津山高等学校本館(旧岡山県津山中学校)

 名 称   岡山県立津山高等学校本館(旧岡山県津山中学校)
       (おかやまけんりつつやまこうとうがっこうほんかん(きゅうおかやまけんつやまちゅうがっこう))
 区 分   国指定重要文化財(建造物)
 所在地   津山市椿高下62番地
 所有者   岡山県
 指定年月日 平成7年12月26日

津山高等学校本館 岡山県立津山高等学枚の本館は、旧岡山県津山中学校の本館として明治33年(1900)8月に建築された木造二階建ての洋風建築であるが、明治時代の旧制中学校の数少ない遺例として、近代における美作地域の中等教育及び岡山県の近代中等教育をも象徴する建造物である。
   津山高等学校の歩みは、明治28年(1895)9月に岡山県津山尋常中学校として開校した時に始まる。その後、明治32年(1899)4月には、中学校令の改正に伴って岡山県津山中学枚と改称される。そして、昭和23年(1948)4月、新制の高等学校となった。
   本館の建設に至る過程では、当初には旧藩校の建物を仮校舎としていたが、明治31年(1898)4月から現在地に新校舎の建築が計画され、同33年8月には本館や教室棟などの主要な建物が完成した。教室棟は後に建て替えられたが、本館は現在も建築当時の姿を伝えている。
   本館は、煉瓦積みの布基礎上に建てられ、正面が23間(41.85m)、側面が5間(9.09m)の堂々たる偉容を誇る。また、中央部の前面は梁間7間、桁行1間分を突出させたうえに、更に玄関ポーチを設置することによって正面玄関を際だたせている。
   本館の屋根は寄せ棟造りで桟瓦葺(さんがわらぶき)とし、屋根の正面中央にはクロイスターヴォルト型の塔屋を設けてその上に避雷針を設置している。そして、左右の屋根の前後には4ヶ所にわたって切妻形の屋根窓を付けて、明かり取りとともにアクセントとしている。
   軒は軒蛇腹となっていて、蛇腹の下は持ち送りで支えられ、型押し飾り風の装飾がなされている。
   こうした外観は最盛期のイタリアルネサンス様式をモデルとしたもので、軒廻り、窓、階段などにはみごとな意匠が施されており、それらのすばらしい調和と比例によって格調高く端正な美しさを完成させることとなった。
   内部には後の時代の改修が加えられているが、旧講堂の格天井(ごうてんじょう)や階段室廻り、各所で用いられている建具の枠などには原形が残っており、その意匠と技術は高く評価できるものである。

■参考文献
・『津山高校百年史』上巻・下巻、岡山県立津山高等学校同窓会、1995年

 

木造神号額

名 称   木造神号額 木造神号額(もくぞうしんごうがく)
区 分   国指定重要文化財(工芸品)
所在地   津山市二宮605番地
所有者   高野神社
指定年月日 明治34年8月2日

   高野神社随身門(ずいじんもん)に掲げられていたとされる額である。縦75.7cm、横60.6cmで、内部の鏡板(かがみいた)は縦50cm、横28.8cmを測る。額縁には左右対称の渦文を各辺2個づつ陽刻し、ヒノキ材と思われる鏡板面には、「正一位高野大明神」の文字を厚さ3mmの銅板で鋲打ちする。寛政12年(1800)序の『集古十種(しゅうこじゅっしゅ)』によると、額の裏面に「寛弘六年癸酉正月二十八日甲申書之。参議正三位行右大弁兼美作守藤原朝臣行成」の銘文があるとされており、これによれば本額は三蹟の一人藤原行成(ふじわらゆきなり)(972-1027)の寛弘6年(1009)の筆跡ということになるが、現状ではその銘文を確認できない。ただし、元禄2年(1689)成立の『作陽誌』には空海真蹟説を批判するのみで行成真筆説にふれていない。



 

木造随身立像

名 称   木造随身立像 (もくぞうずいじんりゅうぞう)
区 分   国指定重要文化財(彫刻)
所在地   津山市二宮605番地
所有者   高野神社
指定年月日 昭和31年6月28日

木造随身立像   高野神社随身門(ずいじんもん)の両脇に侍立していた神像で、阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の2躯からなる。両者ともヒノキ材で彩色をほどこす。ただし現状では彩色がほとんど剥落している。高さは阿形が184.0cm、吽形が178.6cmを測る。阿形像は巾子冠(こじかんむり)を頂き、瞋目、開口して、斜め右方を向く。袴(はかま)をはき、闕腋(けってき)の袍(ほう)を著け、沓(くつ)を履く。左手は横にあげ臂(ひじ)をやや上げながら曲げ、腰を左にひねって立つ。ただし両手首先を欠失する。吽形像も巾子冠を頂き、眼を瞋らせ口は上歯列をむいて結び、斜め左を向く。袴をはき、闕腋の袍を著け沓を履く。左手は上膊以下を袍から露出させ、右手は臂を軽く浮かせながら曲げている。腰は右にひねって立つ。左手臂より先、右手首より先を欠失する。なお吽形の左袖には密教の法具である羯磨(かつま)の文様が箔押しされている。真庭郡落合町・木山神社奥院神門の門客人神像との比較から、阿形像は左手に弓を持ち、右手で弓弦をひきしぼった姿勢、吽像は弓に矢をつがえて腕を休めた姿勢と推定されている。社伝によれば、阿形は櫛岩窓神、吽形が豊岩窓神とされる。
   両像の腹部より腰下にかけての内面に墨書銘が記されている。阿形に「応保二年歳次壬午閏二月二日日次己巳奉始之。大勧進直司尋清・大宮司行老祝師宍人諸貞・中番案主上道近延・下番案主笠成孝。兼又結縁助成之輩、為現世安穏後世菩提也」、吽形には「応保二年歳次壬午二月二日日次己巳始之。大仏師筑後講師厳成・大勧進漆間尋清・大宮司散位□□仲孝・祝師散位宍人師貞・中番案主上道近延・下番案主笠成孝」とある。これによれば、本像は平安時代末期の応保2年(1162)直司漆間尋清以下が勧進となり、仏師筑後講師厳成によって製作されたことがわかる。
   なお、阿形の後頭部内面に「□□□人加賀□惣中□□、元和三年ミ五月吉日」の墨書銘があり、元和3年(1617)の修理のことが判明する。国指定後の昭和33年には解体修理が実施された。

■参考文献
・西川杏太郎「高野神社の随身像」(『古美術』3)1963年
・『日本彫刻史基礎資料集成』(平安時代・造像銘記篇4)中央公論美術出版 1968年
・斉藤孝「美作高野神社門客人神立像一そのイコノロジーを中心に一」(『美術史』89号)
・斉藤孝「高野神社木彫門客人神立像の表現」(『史迹と美術』455号)1975年

 

太刀 銘国行

名 称   太刀 銘国行 (たち めい くにゆき)
区 分   国指定重要文化財(工芸品)
所在地   津山市神戸433番地
所有者   作楽神社
指定年月日 昭和4年4月6日

太刀 銘国行   刃長69.9cm、反り2.4cm、鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)。太刀姿は重ねがやや薄く、身幅は細いが反りが高く堂々たるもので、猪首鋒(いくびきっさき)とする。刃文は蛙子(かわずこ)のまじった太丁子(ちょうじ)に足(あし)、葉(よう)が入っているが、物打辺(ものうちべ)でさびしくなっている。鍛えは板目肌がよく練れ、やや柾目肌がまじっている。茎(なかご)は磨(す)り上げで先を切りとし、鑢目(やすりめ)は筋違い、目釘(めくぎ)孔4個を設ける。茎の目釘孔の下に2字銘「国行」を刻む。
   国行は鎌倉時代中期の刀工で山城国来(らい)派の祖である。銘はすべて国行の2字のみで年紀作品はない。来派には鎌倉時代から南北朝時代にかけて了戒来国光、来国次、来国俊らの名工が輩出している。なお、本太刀は宝永7年(1710)江戸幕府第6代将軍徳川家宣(いえのぶ)から津山松平藩初代藩主松平宣富(のぶとみ)に下賜され、明治初年、同9代藩主松平慶倫(よしとも)が作楽神社に奉納したものである。

■参考文献
・『岡山県の文化財(一)』岡山県教育委貝会、1980年


 

美和山古墳群

名 称   美和山古墳群 (みわやまこふんぐん)
区 分   国指定史跡
所在地   津山市二宮2064番地 他
所有者   津山市
指定年月日 昭和52年3月8日

美和山古墳群   津山市二宮に所在する古墳群。宅地造成計画がもちあがったことから、昭和52年に急遽国の史跡指定を受け保存が図られた。指定面積は32,025平方メートルで、指定後津山市が対象地を順次買上げ、現在すべてが公有地となっている。昭和59年度から、史跡公園化を進め、見学路や便益施設が完備している。史跡公園化に伴う部分的な確認調査以外現在まで発掘調査歴はない。
   古墳群は、南方の吉井川に張り出す細長い低丘陵に位置し、大形の前方後円墳1基、円墳2基で構成され、北からそれぞれ1号墳、2号墳、3号墳と呼ばれている。
 最も北に位置する1号墳は、前方部を西に向ける墳長80mの前方後円墳で、胴塚(どうづか)とも呼ばれる。整備に伴う確認調査により、南側くびれ部と前方部前面で基底部の葺石(ふきいし)が発見されている。確認調査によりほぼ墳形が確かめられているが、それによると後円部直径が48mあり、前方部の占める比率は比較的小さい。前方部頂が後円部頂に比べ約4m程低く側面形は古式古墳の特徴に一致し、平面形態は奈良県天理市に存在する行燈山(あんどんやま)古墳(崇神陵)によく似る。確認調査により、篦描(へらがき)文様の伴う埴輪破片など少量が発見されている。
 1号墳は、戦国時代に美和山城として再利用されており、この際後円部北側の2ヶ所が大きく抉られている。おそらく、この抉りとった土を用いて後円部東端及び前方部西北角に高い土塁を盛り上げたのであろう。また、よくみると墳丘の上面南端を低い土塁が巡っており、両者が一連の土塁両端となって連なっている様子が分かる。この他、美和山城の遺構としては北くびれ部下に石組の井戸が存在する。この井戸周りの平坦面におそらく城本体の建物が建っていたのであろう。
 2号墳は直径34mの円墳で、蛇塚(じゃづか)とも呼ばれる。北、東、南の3ヶ所で葺石基底部の石積が発見されている。いづれも最下段に細長い河原石を立並べ、その上部にやや小振りの河原石を横積みしていた。墳丘斜面中腹に段が巡り2段築成の古墳とされていたが、この段は中世以降につくられたことが調査により明らかになった。1号墳と同様篦描文をもつ埴輪が発見され、このなかには小形の人物腕とみられるものや合子(ごうす)形とみられるものが含まれている。3号墳は直径38mの円墳で、耳塚(みみづか)ともよばれる。北及び南の確認調査溝で葺石基底部が発見された。東端部は畑で一部削り取られているが、墳丘は本来の形をもっともよく残し、北側で周溝状の整形痕跡が地表からもよく観察できる。箆描文様をもっ円筒埴輪破片が多く発見された。なお、胴塚、蛇塚、耳塚という呼称は、安珍・清姫の道成寺(どうじょうじ)物語に似た、大蛇変身を主題にするく「戸川(とがわ)の宿物語」に起源しているらしい。

■参考文献
・中山俊紀『史跡美和山古墳群』津山市教育委員会、1992年
・行田裕美「美和山古墳と蛇塚考」(『郷土館案内』第4号)市立津山郷土館、1984年

 

院庄館跡(児島高徳伝説地)

名 称   院庄館跡(児島高徳伝説地) (いんのしようやかたあと(こじまたかのりでんせつち))
区 分   国指定史跡
所在地   津山市神戸415番地他
所有者   国・作楽神社・個人
指定年月日 大正11年3月8日

院庄館跡   津山市の西端は吉井川によって形成された広大な沖積地が開けている。この地は条里制に伴う地割りが実施された地域で、現在でも当時の面影をとどめている。院庄館跡はちょうどこの条里の一画に位置する。
 院庄館跡は鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護所と推定される遺跡である。これを裏付ける文献資料としては、『作陽誌』『院庄作楽香(いんのしょうさくらのかおり)』があげられる。『作陽誌』によると「諺曰、作州府院庄、四方高而地塞。即此地也」との記事がみられる。『院庄作楽香』にも「文治後、総社に在りし国府自ら廃り、鎌倉霸府の派遣せし守護職は大率此地に居りて州府と称せり」との記事がみられ、館の存在を示すものである。
 また、津山市教育委員会の2度にわたる発掘調査からも館の存在を認める成果が得られている。最初の調査は1973-74年にかけて実施された。この時の調査成果によると、現在残っている土塁は往時の土塁を踏襲したもので、最初の館の構築よりやや遅れて築かれたものであること。土塁内部には井戸、掘立柱建物が存在していたことが明らかになった。さらに、青磁、白磁、墨書磁器、備前焼、勝間田焼、土鍋等館存続期に使用されていた遺物も出土した。
 2度目の調査は1980-81年にかけて、館の範囲確認を目的に実施された。調査は「御館」「掘」など館関連地名の残っている水田を対象に実施されたが、館域は土塁の外部までには及ばず、中心はあくまでも土塁の内部の範囲であることが判明した。
   現在、館跡のほぼ中央部には後醍醐天皇を祭神とし、児島高徳を配祀とした作楽神社が建てられ、『太平記』にみられる後醍醐天皇と児島高徳の伝説地として広く知られている。

■参考文献
・河本清『史跡院庄館跡発掘調査報告書』津山市教育委員会、1974年
・三好基之『津山市史』第2巻・中世、津山市、1977年
・行田裕美『史跡院庄館跡』津山市教育委貝会、1981年

 

津山城跡

名 称   津山城跡 (つやまじょうせき)
区 分   国指定史跡
所在地   津山市山下83番地3 他
所有者   津山市
指定年月日 昭和38年9月28日

津山城跡 津山城は、美作一国を領して津山に入封した森忠政(もりただまさ)が築いた平山城である。忠政は、慶長8年(1603)の入封当初は院庄に入るが、領国支配拠点としての適地を探し求めた結果、美作中央部にあって古くから開けていた津山盆地のほぼ中心に位置し、水陸交通の要路に沿い、富川(とがわ)・林田(はいだ)などの宿・市にも程近い鶴山の地を選ぶ。
   ここには既に嘉吉年間(1441~44)山名忠政(やまなただまさ)が城を構えており、当時は山上に鶴山八幡宮、南の山腹に妙王院があり、西の山腹には八子(やご)町の集落があったが、これらを周辺に移転した上で翌9年に起工、元和2年(1616)に一応の完成を見た。
 まず、その縄張りに着目すると、自然地形を巧みに活かしながら、土木工事によってさらに要害堅固な城地を創出したことが窺える。鶴山の最高所に平地を広く取って本丸とし、これを取り囲むような形で山腹に二の丸・三の丸を階段状に廻らせ、山の大半を石垣で覆い、南を大手(表)・北を搦手(からめて)(裏)とした。南・西・北の山麓(内山下(うちさんげ))は総曲輪(そうくるわ)として、その外周を土塁・濠で固め、東側は直下を流れる宮川及び天然の断崖をそのまま防御線に取り込む。さらには、南の吉井川とその支流である西の藺田(いだ)川を防備上の最前線として、その内側に城下町の主要部を形成している。以上の縄張り確定の前提条件として、吉井川の流路を南寄りに固定する治水工事も必要であった。
   次に、曲輪(くるわ)ごとの概要を述べる。最終拠点となる天守曲輪は本丸の西端に寄せられているが、これは本丸東端に一段高く築かれた石垣と共に、東方の丹後山(たんごやま)を意識した構えと見られる。天守は五層で台の石垣も含めて高さ26m余、壁は漆喰(しっくい)塗りの白壁とし、屋根には破風(はふ)飾りを全く設けず、塔のように聳え立つすっきりとした外観を有しており、その四周は石垣と櫓・塀で厳重に固められていた。本丸は城内の主要部であり、大小の櫓31棟・門15棟(天守曲輪含む)を連ねて守りを固め、内側の平坦面に約70の部屋を有する御殿を構えた。限られた敷地を有効に使うためか、外縁部の櫓や門を御殿の一部に当てているのが注目される。二の丸には櫓12棟・門7棟、三の丸には櫓17棟・門11棟が並び、大手・搦手とも通路を複雑に折り曲げてあって容易に本丸へは近付けぬ構えである。三の丸の南・西面下段には馬場が設けられた。なお、北の裏下門付近の廐濠(うまやぼり)・薬研濠(やげんぼり)は、嘉吉年間の山名氏築城時の遺構と伝えられる。総曲輪外周の土塁上には17棟の小櫓が並び、6箇所に宮川・京橋(大手)・二階町・田町・作事・北(搦手)の諸門が開かれ、内部には藩の重要施設や重臣の屋敷が置かれていた。
   城下町の配置も巧妙を極める。もちろん、忠政が一代で作り上げた訳ではなく、現在の城東・城西地区にも町屋が成立して一通りの完成に至るのは寛文年間(1661~73)であるが、特に藺田川・宮川に挟まれる中央部などは築城開始時の計画に基づいて建設されたと考えられるので、概略を以下に記すことにしたい。丘陵が続くために比較的防御が薄く、また洪水でも浸水する恐れの少ない北西部を武家屋敷地とし、町人町を南部に集めた。出雲往来もこの町人町を東西に貫く形で城下に引き込まれており、町屋は往来に沿って東西に進展することになる。宮川の東に迫る丹後山南麓には東寺町(ひがしてらまち)と下級武士団の屋敷地を並べて弱点を補強し、藺田川以西にも敷地の広い寺院を集めた西寺町(にしてらまち)を設けて城下防衛拠点とした。また、備前往来に通じる南西方面にも武家屋敷を集めた。こうして計画的に形成された城下町が、そのまま現在の津山市街の基盤となっている。
   森家4代・松平家9代にわたる歴代津山藩主の居城としてその領国経営を支え、文化6年(1809)の本丸御殿焼失以外には大きな損壊を受けることもなかったが、明治の廃藩置県・廃城令によって名実共にその役割を解かれ、明治7年(1874)から翌年にかけて全ての建物が取り除かれた。その後、総曲輪の土塁を崩して濠を埋め立てたことにより、内山下は市街地に取り込まれ、三の丸以内の中枢部も荒れるに任せていたが、旧藩士の間で保存の気運が高まり、明治33年(1900)津山町有の鶴山(かくざん)公園となり、以後はその都度補修・整備されて現在に至っている。
   建物こそ残っていないが、石垣は全体として旧状をよくとどめており、縄張りの巧妙さと築城最盛期の高度な土木技術、そして工事に駆り出された人々の労苦を今に伝える。ある程度加工した石を組み上げ、隙間に小さな石を詰め込んだこの積み方は、打込接(うちこみはぎ)と呼ばれるものである。また、天守曲輪南の入口付近や本丸北方の粟積櫓(あわづみやぐら)下の石垣には、刻印を施された石が積まれていて興味深い。これらの石材は、南方の大谷(おおたに)・金屋(かなや)の山中から切り出したり、周辺の古城の石材を転用したりして集めたものと伝えられている。天守台からは市街地が手に取るように見渡せ、春には公園化以後に植樹された桜の花がまた格別の興趣を添える。
   津山城に関しては、絵図・指図(さしず)類が多く現存する上に、明治初年の写真が残っているので、往時の姿を想像するのはそれほど難しいことではない。なお津山郷土博物館には、これらの資料に基づいて製作された150分の1の津山城復元模型が常設展示されている。

■参考文献
・「森家先代実録」(『岡山県史』第25巻・津山藩文書、岡山県、1981年)
・津山郷土博物館蔵各種「津山城・城下町絵図」
・松岡三樹彦『津山城』(津山郷土館報第4集)津山郷土館、1972年)
・鈴木充・三浦正幸『津山城復元模型の製作過程』(津山郷土博物館紀要第2号)津山郷土博物館、1990年

 

箕作阮甫旧宅

名 称   箕作阮甫旧宅 (みつくりげんぽきゅうたく)
区 分   国指定史跡
所在地   津山市西新町6番地
所有者   津山市
指定年月日 昭和50年3月18日

箕作旧宅   市内西新町の旧出雲往来に面した箕作阮甫旧宅は、昭和50年3月に国の史跡に指定され、翌年にかけて解体・復元された。宇田川(うだがわ)家とならび、津山の洋学を代表する洋学者箕作家の初代、箕作阮甫は寛政11年(1799)9月7日に生まれた。それ以来文化9年(1812)戸川町に移転するまでの14年間にわたって、人格形成期である少年期をこの家で過ごした。
   箕作氏は近江源氏の支族で、もとは佐々木姓を称していた。佐々木氏22代高頼の子定頼が近江箕作山(現滋賀県五個荘町)の城主として、箕作氏を称したことにより箕作家は始まる。その四世泰秀が大坂の陣に敗れて小豆島に隠れ、後その二子泰連・義林とともに美作に移った。兄泰連は美作国楢原村大谷(現美作町楢原上)に帰農し、弟義林が津山藩森家に仕えた。箕作家の医業の初めは義林の次男十兵衛貞辨である。貞辨の後をその娘(造酒(みき)子)に迎えた貞隆が継ぎ、その子貞固丈庵の時に医業大いにさかえ、松平家に召し出されて藩医となった。貞固は44歳で亡くなり、可貞(豊順)が跡を継ぐが、これも17歳で早世したので、弟恵迪(けいてき)が12歳でその後をうけることになった。この恵迪が後の阮甫である。
   阮甫は幼年のころ藩儒永田桐隠(とういん)に漢学を学んだ。家督相続後の文化13年(1816)京に上り、竹中文輔のもとで医学を修業。文政6年(1823)には藩主の供をして江戸に出、当時一流の洋学者になっていた同じ津山藩医の宇田川玄真(うだがわげんしん)に洋学を学ぶ。文政10年(1827)一度津山に帰国するが、天保2年(1831)10カ年の江戸詰をおおせつかる。その後何度か更新され、ついには「定府」となった。天保10年(1839)から幕府天文台翻訳員となり、蘭書・外交文書の翻訳にあたった。嘉永6年(1853)ペリー来航のおりには、米国大統領の国書などの翻訳を担当する。同年ロシアのプチャーチンが長崎に来航すると幕府の外国応接掛である川路聖謨(かわじとしあきら)の補佐役として長崎へ赴き、外交交渉に携わるなどの功績を残した。
   安政3年(1856)幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)が開設されると教授に任命された。蕃書調所は現在の東京大学の前身であるこから、阮甫は「日本最初の大学教授」と称されている。また、江戸における種痘館の設立に尽力し、その発起人名簿の筆頭に名を連ねている。文久2年(1862)には洋学者として初めて幕臣に列したが、翌年6月17日65歳で没した。
   阮甫の訳述書として、日本最初の医学雑誌『泰西名醫彙講(たいせいめいいいこう)』をはじめ「外科必読(げかひつどく)」「産科簡明(さんかかんめい)」『和蘭文典(オランダぶんてん)』「八紘通史(はっこうつうし)」「水蒸船説略(すいじょうせんせつりゃく)」など多くのものが残されており、99部160冊あまりが現在確認されている。その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学など非常に広範囲にわたっている。また、プチャーチンの長崎渡来に際し、日本側応接使に随行した阮甫の日記『西征紀行(せいせいきこう)』は幕末の外交関係の資料として、きわめて重要な意味をもっている。
   解体時の調査によって、旧宅は江戸時代の街道筋の町屋の特徴をよく保存していることがわかった。母屋(おもや)は木造平屋建て桟瓦葺(さんがわらぶき)。土蔵は木造平屋建てで本瓦葺(ほんがわらぶき)、その他、桟瓦葺の便所、渡り廊下、勝手、井戸からなる。この旧宅は今後の街並み保存の面でも注目すべきものであるといえよう。

■参考文献
・木村岩治『箕作阮甫とその一族』日本文教出版、1994年

 

田熊の舞台

名 称   田熊の舞台 (たのくまのぶたい)
区 分   国指定重要有形民俗文化財
所在地   津山市田熊2384番地
所有者   田熊八幡神社
指定年月日 昭和50年9月3日

田熊の舞台   明治以前の農村では、芝居は最大の娯楽であった。それは、鑑賞して楽しむものでもあると同時に、自らが演じるものでもあった。このように農村で行われた歌舞伎芝居は、地狂言、地芝居、地下芝居、村芝居、農村歌舞伎などと様々に呼ばれるが、芝居の中身は、江戸・大坂・京都など本場の歌舞伎を模して地元の人々が演じたものであった。中には、旅芝居の役者から学んだり、村人が江戸や大坂などで有名な歌舞伎を習い覚えてきたりしたものもあった。
美作地方では、江戸時代末期から明治初年にかけての時期、歌舞伎芝居が各地で盛んに行われていた。こうした村芝居の隆盛を支えていたのが、村内に鎮座する神社に設けられた舞台で、各所に舞台が競うように建てられた。
   このような、歌舞伎芝居を演じる舞台を農村歌舞伎舞台といって、現在でも全国各地で1300棟余りが残っていると言われている。そして、その大多数は明治時代に建てられたものだという。田熊八幡神社の歌舞伎舞台は、そうした風潮の中で建築された本格的な舞台である。
   田熊八幡神社は、旧田熊村下分の小高い山の上に鎮座し、祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)・足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)・武内宿爾命(たけしうちのすくねのみこと)である。社伝では弘仁2年(811)の創建と伝える。本殿は寛文4年(1664)森長継(もりながつぐ)の再建と伝えられている。
   舞台は社殿の南東に位置し、ほぼ西向きに立って拝殿前の広場に面している。舞台の建物は、桁行6間(11.05m)、梁間3.5間(6.8m)の大きなもので、単層、桟瓦葺(さんがわらぶき)、入母屋造(いりもやづくり)である。舞台上手の一段高い位置には太夫座が作り付けになっており、舞台中央には直径4mの皿回し式の回り舞台が設けられている。舞台の背景の壁は大きくくり抜かれて窓になり、遠くの山々や木立の緑を舞台背景として利用している。一方、奈落(ならく)にも数カ所に窓が明けられ、こちらは外光による奈落の明かり取りとなっている。
   また、舞台が神社拝殿の斜め前に位置することから、拝殿を巧みに利用して、拝殿と舞台下手を渡り廊下で結んで花道がしつらえられている。舞台の建築年代に関しては、「田熊八幡神社重要書綴」から明治4年(1871)の建築であることが知られる。また、棟木に書き記された記念の墨書から、大工は野上米右衛門であったことが判明している。
   なお、奈落の柱に残された様々な落書きや墨書によって、播磨の旅役者を頻繁に招いて上演されていたことや、各種の出し物が演じられたことがわかっている。
   美作地域全体では多くの農村歌舞伎舞台があったが、現存するものは数棟となっており、それらの中でも田熊八幡神社の舞台は保存状態に優れたものである。そして、美作地域の農村歌舞伎芝居が非常に盛んであったことを物語る貴重な民俗資料である。

■参考文献
・岡山県教育委員会編『岡山県の文化財』岡山県文化財保護協会、1980年

 

旧津山藩別邸庭園(衆楽園)

名 称   旧津山藩別邸庭園(衆楽園) (きゅうつやまはんべっていていえん(しゅうらくえん))
区 分   国指定名勝
所在地   津山市山北
所有者   津山市
指定年月日 平成14年9月20日

 衆楽園 衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園である。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後、幕末までは家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」として命名された。
   庭園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、南北に長い敷地で大半を池が占める。また、別邸跡の古い建物群は現存しないが、当時建物のあった位置に余芳閣・迎賓館・清涼軒と呼称する建物が、また庭園の東端近くに風月軒と称する建物がある。
   池は、中島と中島にかかる橋によって大まかに三つの水面に分かれており、北の池は東と北から築山が迫るなど、深みのある物静かな景観を作り出す。余芳閣の2階からは、このような奥行きのある風景の背後に、はるか東方の山並みを借景として望むことができる。これに対して、中央から南の池は、池をめぐる道づたいに広々とした水面の風景を楽しむことができる。

 

木造獅子(一)、(二)

名 称   木造獅子(一)、(二) (もくぞうしし(一)、(二))
区 分   国指定重要文化財(彫刻)
所在地   津山市二宮605番地
指定年月日 平成16年6月8日 

木造獅子(一)           木造獅子(二)

 木造獅子(一)木造獅子(二)
                                                        

種別
名称
員数
大きさ
製作の年代
所有者

 

彫刻
木造獅子(一)
1対
像高約70cm
平安時代前期
宗教法人 高野神社
彫刻
木造獅子(二)
1対
像高約27cm
平安時代後期
宗教法人 高野神社

 説明:2対とも無角なので、獅子・狛犬ではなく両方とも獅子という珍しい1対の例である。
それぞれの2像とも開口・閉口の相違を除くと、耳の向き、直毛となるたてがみ、ほぼまっすぐな体勢などがお互い同一となるのは古式な表現である。(一)は重量感あるつくりから平安時代も前期にさかのぼると考えられ現存最古の獅子1対の遺例である。(二)は平安時代後期の作である。

 

美作国分寺跡

名 称   美作国分寺跡 (みまさかこくぶんじあと)
区 分   国指定史跡
所在地   津山市国分寺296番地 他
指定年月日 平成16年2月27日

美作国分寺跡   美作国分寺跡は、岡山県東北部、吉井川近くの台地上に所在する古代寺院である。調査の結果、南から南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、中門と金堂を回廊で連結し、その東南に塔が位置するという、典型的な国分寺式の伽藍配置をとることが明らかになった。また、講堂北方には別の礎石建物があることと、寺域はほぼ2町四方であることも判明している。
 年代は、出土遺物から天平13年(741)の国分寺建立詔からほどなく造営され、平安時代末には衰退したものと考えられる。出土遺物では、創建期の軒瓦の文様が平城宮東区朝堂院上層の礎石建物所用瓦と酷似することが注目される。
 美作国分寺跡は主要な伽藍配置が判明し、特に金堂、塔周辺の石敷など、遺構の残存状況は良好である。出土した瓦からは、中央政府との強い関係が想定され、国分寺造営の実態をよく示すとともに、古代美作国の政治情勢を示す上でも重要である。

■参考文献
・湊 哲夫ほか『美作国分寺跡発掘調査報告』 津山市教育委員会 1980年
・小郷利幸 平岡正宏『美作国分寺跡』塔跡発掘調査報告書 津山市教育委員会 2002年


 

三成古墳

名 称   三成古墳 (さんなりこふん)
区 分   国指定重要文化財(史跡)
所在地   津山市中北下814-3番地
所有者   津山市
指定年月日 昭和54年10月23日

三成古墳   三成古墳は、昭和52年(1977)に墓地造成工事中に人骨の残る石棺が発見されたことからその存在が明らかとなった。翌昭和53年に岡山県教育委員会によって発掘調査が行われ、その結果全長35mを測る美作地方では数少ない前方後方墳であることが判明した。
 本墳の埋葬主体は前方部・後方部墳頂にそれぞれ各1基、後方部墳丘内に1基、後方部墳丘裾に2基で、墳頂部以外の主体は小児棺である。
 この古墳の築造時期は、副葬品や出土した土器等から概ね4世紀末~5世紀初めと考えられ、この地域の首長及びその一族の墓と推定されている。また、副葬品は鏡・勾玉・鉄剣・鉄斧等が出土しており、これらの遺物は久米歴史民俗資料館で観ることができる。
 なお、本墳は昭和54年10月に国史跡指定を受けたのち墳丘の復元整備を行い、築造時の姿を取り戻して現在に至っている。

■参考文献
・河本 清 柳瀬昭彦『久米三成4号墳』岡山県教育委員会 1979年
 
 

本谷のトラフダケ自生地

名 称   本谷のトラフダケ自生地 (ほんだにのとらふだけじせいち)
区 分   国指定重要文化財(天然記念物)
所在地   津山市南方中236-2番地
所有者   津山市
指定年月日 昭和51年6月16日

トラフダケ自生地   トラフダケ(虎斑竹)は、当地に自生する高さ3~5m、稈の太さ1cm程度のヤシャダケ(夜叉竹)の稈(かん)に岡山虎斑竹菌が寄生し、黒褐色を呈する円形あるいは楕円形の斑紋が表れたものを指す。発生する斑紋の大きさは稈の太さによって異なり一定しないが、長さ10~60mm程度、巾7~50mm程度のもので、太い稈には比較的大きな斑紋が発生する。
 現在のところこのトラフダケは本市及び真庭市のみで確認され、この種のものとしては類例が少なく希少性が高いものであるが、生成過程などの詳細については明らかとなっていない点が多い。
 本市の自生地は、国道181号線から南に分け入った、久米川に注ぐ小支流を見下ろす斜面に約8アール程度の範囲において自生している。


■参考文献
・岡山県教育委員会編『岡山県文化財総合調査報告13』(天然記念物編)岡山県教育委員会 1977年



 

本源寺本堂、庫裏、霊屋、霊屋表門、中門、附棟札1枚(本堂附)

名 称   本源寺本堂、庫裏、霊屋、霊屋表門、中門、附棟札1枚(本堂附)
      (ほんげんじほんどう、くり、たまや、たまやおもてもん、ちゅうもん、つけたり むなふだいちまい)
区 分   国指定重要文化財(建造物)
所在地   津山市小田中1373番地
所有者   本源寺
指定年月日 平成25年8月7日


本源寺本堂 本源寺は、津山市街西部に位置する臨済宗妙心寺派の寺院である。旧名は慶長12年(1607)に津山藩主森忠政が移転した龍雲寺で、森家の菩提寺である。天和3年(1683)の忠政の50回忌に当たり、忠政の院号に因み改称されたもので、境内中央に本堂が建ち、東に庫裏が並ぶ。
 庫裏は延宝(1673-1680)頃の建築とみられ、桁行3間(8.2m)、梁間3間(8.2m)、屋根は宝形造、銅板葺である。正面に唐破風屋根の向背を付け、柱頭部に金襴巻上の地紋彫、頭貫に亀甲模様の地紋彫を施し、破風や垂木は精緻な彫刻で飾る。
 現在、森忠政ら28基の位牌を祀る霊屋は、三間四方、宝形造、背面半間庇付き、一間向拝付き(向唐破風造)で、屋根は銅板葺である。霊屋本体は全て角柱とし、側まわりに舟肘木を用いるほかは組物はない。これに対し向拝は、唐草文様の木製垂木端飾り、頭貫の亀甲花菱文様地紋彫、木鼻の青海波文様、柱頂部に胡麻殻寂决(じゃく)り金襴巻の浮彫など装飾性にあふれている。内部は、中央二間四方を上段、その後方に仏前、位牌壇などが設けられている。
 表門は四脚平唐門形式、銅板葺きである。頭貫地紋彫など緻密な装飾がなされている。霊屋の建立年代は「武家伝聞記」の記事から寛永16年(1639)と考えられ、表門の建立時期も同時期とみられる。
 霊屋の背後には、森家一門7人の五輪塔墓がある。西から晃昌院(於菊、森忠政娘)、智勝院(於岩、森忠政妻)、本源院(森忠政)、雄心院(森長可)、霊光院(森忠継)、碧松院(森忠政姉・関成次母)、光徳院(関成次・森忠政甥)と並ぶ。基礎石垣は、凝灰岩の切石を用い、五輪塔は花崗岩製である。やや小型の碧松院の墓を除き、全体の高さは4メートルに達する。中でも参道の正面にある森忠政墓は5.15メートルと大型で、墓前には二基の石灯籠も残されている。また、表門から霊屋及び森家一門墓に至る凝灰岩製の石敷参道は、霊屋及び墓の造営に伴い、17世紀中期から後期にかけて順次整備されていったとみられる。(岡山県指定史跡)
 中門は江戸時代初期の建築とみられ、間口4.0m、切妻造、桟瓦葺の薬医門である。

 本源寺には、慶長期にさかのぼる方丈型の本堂を中心として、庫裏、中門や森家代々当主を祀る霊屋など、桃山時代から江戸前期までに整備された建造物が一体で残されており、地方における大名家菩提寺として建てられた臨済宗寺院建築の初期の遺構として価値が高い。

■参考文献
・鈴木 充ほか『改訂 本源寺建造物調査報告書』 宗教法人 本源寺 2011年


 

旧苅田家住宅

名 称   旧苅田家住宅10棟 主屋 附祈祷札二枚、三階蔵 附棟札一枚、米蔵 附棟札一枚、前蔵、西蔵 附祈祷札一枚、大蔵、醤油蔵、
      新蔵、巽門及び浴室、裏門
      (きゅうかんだけじゅうたくじゅっとう、おもや つけたりきとうふだにまい、さんかいぐら つけたりむねふだいちまい、
       こめぐら つけたりむなふだいちまい、まえぐら、にしぐら つけたりきとうふだいちまい、おおぐら、しょうゆぐら、
       しんぐら、たつみもんおよびよくしつ、うらもん)
区 分   国指定重要文化財(建造物)
所在地   津山市勝間田町17番地
所有者   津山市
指定年月日 平成28年7月25日

 旧苅田家住宅は、旧津山城下の商家町である津山市城東重要伝統的建造物群保存地区の西部に所在する。苅田家は、江戸時代中期に当地で酒造業を始め、江戸時代末期には城下屈指の大店となり、周囲の敷地を取り込みつつ主屋の増築や土蔵群の整備がなされた。主屋は間口14間の町屋で、旧城下の現存する町屋で最大規模を誇る。
 内部は庭園と一体となった充実した接客空間を有し、望楼を持つ二階座敷には近代的な趣向も認められる。
 旧苅田家は、主屋の海鼠壁を用いた外観構成などが当地方における町屋建築の典型を示すとともに、屋敷構えも江戸時代以降継続して営んだ酒造業の繁栄とともに発展した過程を示しており、当地方を代表する商家の住宅として歴史的価値が高い。
 なお、当住宅は「苅田家住宅及び酒造場」の名称で市指定史跡(平成23年度指定)となっている。


■参考文献
・鈴木 充ほか『栄屋 苅田家住宅及び酒造場調査報告書』津山市教育委員会 2015年






 

この情報に関する問い合わせ先

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