東京大学の創立に関わった津山人 箕作阮甫(みつくり・げんぽ)
東京大学安田講堂 | 箕作阮甫 |
日本の大学のトップに位置するのは、言うまでもなく東京大学ですが、その創立に津山出身者が大きく関わっていたことをご存知でしょうか?
その人物は、津山藩医で洋学者の箕作阮甫です。1853年のペリー来航時にアメリカ大統領の親書の翻訳を命ぜられたほか、同じ時期にロシアのプチャーチンがやって来た時は、交渉団の一員として長崎に派遣されるなど、日本の開国に際して大いに才能を発揮した学者です。
開国後、本格的な洋学の研究・教育機関の必要性を認識した幕府は、1856年に蕃書調所を設立しました。阮甫は、その首席教授に任命されるのですが、この蕃書調所が後に東京大学へと発展することになります。「日本最初の大学教授」と呼んでも過言ではありません。
また、当時は天然痘を予防する牛痘種痘が全国に広まりつつありましたが、江戸における種痘の拠点となったお玉ヶ池種痘所は、幕府への出願や開設資金の出資に際し、阮甫が先頭に立って尽力しているのです。この種痘所が、やがて幕府の直営となり、西洋医学の学校兼病院として発展、後の東京大学医学部および附属病院へとつながっていて、今年(2008年)が創立150周年に当たることから、去る5月9日に盛大な記念式典が挙行されました。蕃書調所とお玉ヶ池種痘所が変遷して東京大学ができるまでの大まかな流れは、下の沿革をご覧ください。
阮甫の子孫も有名な学者ばかりで、その多くが東京大学に入学して後に教授になるというコースを歩んでいますが、とりわけ孫の菊池大麓は、東京大学の理学部教授・理学部長を経て、総長まで務めています。箕作家をこのような「学者の家」に育てたのが、阮甫その人でした。
東京大学創立までの沿革
西暦 1856 (安政3年) 蕃書調所 ↓ 1858 (安政5年) ↓ お玉ヶ池種痘所 ↓ ↓ 1861 (文久元年) 10月 ↓ 西洋医学所 ↓ ↓ 1862 (文久2年) 5月 洋書調所 ↓ ↓ ↓ 1863 (文久3年) 2月 ↓ 医学所 8月 開成所 ↓ ↓ ↓ 1868 (明治元年) 開成学校 医学校 ↓ ↓ 1869 (明治2年) 大学南校 大学東校 ↓ ↓ 1871 (明治4年) 南校 東校 ↓ ↓ 1872 (明治5年) 第一大学区大一番中学 第一大学区医学校 ↓ ↓ 1874 (明治7年) 東京開成学校 東京医学校 ↓ ↓ 1877 (明治10年) (合併) 東京大学
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