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文学碑(文学の散歩道)

 津山市文化協会は、町中を歴史と文化の香り豊かな「文学の散歩道」にしようと文学碑の建立運動を行ってきました。
 昭和53年11月3日「文化の日」にオープンした散歩道は、津山文化センター前の西東三鬼碑を第一号碑に薬研濠に沿いながら6基の文学碑を建立し、昭和57年までの4年間に14基の文学碑を建立しました。
 そして、平成24年9月1日、創立60周年を記念して新たな文学碑を建立し「文学の散歩道」は、現在、15基となっています。

 

 

(1)「花冷えの城の石崖手で叩く」 西東三鬼

 
 近年俳句の旗手とされる三鬼(明治33年から昭和37年)は「天狼」(山口誓子主宰)創刊の中心となり、自らは「激浪」「断崖」を主宰した。
 南新座に生家、西寺町 成道寺に代表作「水枕がばりと寒い海がある」を刻む墓碑がある。
 本名 斎藤敬直(けいちょく)。
 津山文化センター(1)
 昭和53年 文化の日 設置

(2)「秋風や城といふ名に石枯るる」 大谷碧雲居

 
 碧雲居(明治18年から昭和27年)は俳誌「曲水」二代主宰者。「心栄の人」と評される作品の玲瓏たる気品と温雅、闊達たる境地は独自のもので書画、篆刻、茶禅にも通じ文人墨客の名にふさわしい生涯だった。
 本名 浩(こう)。山北出身。
 薬研濠東
(2) 昭和53年 文化の日 設置

(3)「おのつから あゆみもおそくなりにけり さくら花さく のべのかよひち」直頼高

 
 美作三歌人の一人とされる頼高(安政6年から大正8年)は上之町、大隅神社の神主として梅の木に囲まれた「梅の下舎」で美作歌壇を指導、歌誌「水甕」主宰、尾上柴舟に歌の手ほどきをした。秋久家に老梅が残る「梅の下舎」跡がある。
 薬研濠北
(3)

(4)「霧に花売の行く川の水はれてゆく」 荻原井泉水

 
 俳誌「層雲」を主宰した井泉水(明治17年から昭和51年)は自由律俳句を確立、日本芸術院会員となり晩年は独自の俳画「草画」を描いた。
 この作品は昭和16年、津山を訪れ、いまも津山情緒になっている八出の花売り女を詠んだ。
 千代稲荷宮
(4)

(5)「花屑にきのふけふなし苔の艶」 大谷碧雲居

 
 俳誌「曲水」二代主宰者碧雲居(明治18年から昭和27年)は玲瓏たる気品と温雅、闊達な句風で知られる。
 この作品は戦後、元旅館だった市民寮の苔庭を詠んだもの。文化センターわきの「秋風碑」に対し、鶴山の桜と庭の苔が美しい。
 鶴山公園道
(5)

(6)「花の上に花現れて夜の城」 竹久雨町

 
 雨町(うてい)(明治27年から昭和47年)は大正14年、山陽吟社を創立、俳誌「山彦」を創刊、半世紀近く郷土俳壇の糧となった。
 また「雲母」同人となり津山支社を設立したが、飯田蛇笏主宰の死に殉じて解散。
 勝央町出身。本名 豊。
 城南病院東
(6)
 昭和55年11月設置

(7)「ふるさとを よぶこゑに あふれゐる時も 晴れて静かなり春の大那岐」芦田高子

 
 昭和の与謝野晶子と呼ばれる。高子(明治40年から昭和54年)は勝田郡勝北町出身。昭和22年、歌誌「新歌人」を主宰、晩年は金沢に住んだがふるさと美作を詠んだ作品は多い。
 作品では内灘反基地闘争に材を取ったヒューマンな「内灘」が有名。
 丹後山
(7)
 昭和55年11月 設置

(8)「なかなかに まきし垣ねはさもなくて そともの方に しげる なでしこ」 小原千座

 
 千座(寛政5年から慶応4年)は江戸時代の豪農、立石家(二宮)の家系に生まれ徳守神社の神官、小原家の養子となった。
 国学に精しく詠歌に長じ長歌、短歌何れも精通していた。
 幕末の歌人平賀元義が美作の名人30人の筆頭に挙げているように美作歌壇の開拓者としての足跡が大きい。
 三枚橋南
(8)
 昭和54年10月 設置

(9)「絲桜水にも地にも枝を垂れ」 山口誓子

 
 誓子(明治34年から平成6年)は「新興俳句運動」の指導者的な存在となり昭和初期の俳壇を賑わせた。
 俳誌「天狼」主宰。昭和54年春、西東三鬼の「花冷え」碑の対面に訪れて衆楽園を吟行した。
 曲水跡に目を移し「曲水に水無きときの緑苔」とも詠んだ。
 衆楽園
(9)
 昭和54年10月 設置

(10)「枯蓮のうごく時来てみなうごく」 西東三鬼

 
 三鬼(明治33年から昭和37年)が少年時代を過ごした南新座生家前庭に建つ。終戦直前の昭和21年に詠んだ代表作の一つ。
 自註に「奈良薬師寺の小さな蓮池」とある。『夜の桃』所収。
 没後30年記念の三鬼顕彰全国俳句大会が開催された平成4年春「三鬼生誕の地」として建立。
 南新座三鬼生誕の地
(10)
 平成4年4月 設置

(11)「月見ればこよひなりけり旅の空」 西山宗因

 
 後年、俳聖・芭蕉が「宗因は俳諧の道の中興なり」とたたえた談林派の鼻祖の宗因は、
 承応2年(1653)津山を訪れ旧友快映坊のいる聖徳寺に宿して俳諧史の貴重な文献「津山紀行」を残した。
 句は寺で仲秋の名月を迎えほのかな旅愁を漂わせている。
 書は彫無季氏。
 聖徳寺
(11)
 昭和57年11月 設置

(12)「疎開日記」碑 谷崎潤一郎

  
 「池に落つる雨の音侘し。因に云ふ。この御殿は明治初年にお城より此処に移し建てしものの由にて、愛山宕々庵と号す。
 床の間に松平康倫公の書『愛山』の軸をかけ、その上に確堂公書『宕々庵』の額あり。
 6畳の間に慎由公夫人静儀の和歌『山は今朝霞のきぬにつつまれて千代の色そふ松の村立』の額あり。」
 文豪、谷崎は終戦間際の昭和20年津山に疎開。宕々庵で「細雪」を書き継いだ。
 八子・愛山
(12)

(13)「過ぎつらん都のこともとふべきに雲のよそにもわたる月かな」 藤原顕輔

 
 元永元年(1118)美作国守になった顕輔が若いころの介の位で美作国に着任、山国の名月に遠い都をしのんで詠んだ。
 顕輔は崇徳天皇の勅命で「詞花和歌集」を撰したがこの歌は「続詞花和歌集」に収録されていて名高い。
 書は中原垂揚氏。
 神楽尾公園
(13)
 昭和54年10月 設置

(14)「海山は中にありとも神垣の隔てぬ影や秋の夜の月」 神崎与五郎

 
 赤穂義士、神崎与五郎則休はもと津山藩士。森家の改易で赤穂浅野家に仕官した。
 刃傷事件で仇討に加盟、江戸で吉良家の動静を探る討ち入り前の元禄15年(1702)秋、故郷徳守宮の祭礼をしのんで詠んだ。
 なお、母堂の墓は愛染寺にある。書は佐藤方南氏。
 徳守神社
(14)
 昭和57年11月 設置

(15)「佐保姫に合ふ靴をおく花の下」 白石不舎

 
 白石不舎(大正13年9月1日から平成24年2月27日)は西東三鬼に師事。以降、俳句教室や俳句結社「綱」を主宰。
 句集「作州」を発表。三鬼の句墓碑や生誕地句碑を建立したほか、「三鬼顕彰全国俳句大会」「西東三鬼賞」「曲水の宴俳句会」の開催にも精力的に取り組み、直弟子として師の顕彰に努めた。
 句にある「佐保姫」は春の女神。言い伝えでは白く柔らかな春霞をまとった若い女性。「咲き競う万朶のさくら、下からは見えないが、樹上にはきっと佐保姫が来ているはず。その佐保姫が降り立つ時のために、彼女に合う靴を置いておこう」という句。
 津山市出身。本名 白石 哲。
 津山文化センター
(15)
 平成24年9月 設置

その他の文学碑

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この情報に関する問い合わせ先

津山市観光文化部 文化課
  • 直通電話0868-32-2121
  • ファックス0868-32-2154
  • 〒708-8501岡山県津山市山北520 東庁舎2階
  • Eメールbunka@city.tsuyama.lg.jp