世紀の美男子 名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)と「にらみあいの松」
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名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)と |
江戸幕府から美作国を与えられた森忠政は、慶長8年(1603)3月に美作国院庄に入りました。忠政はまず院庄(いんのしょう)を本拠と定め、戦国時代の古城跡である「構(かまえ)城」を仮御殿とするため、建設工事に着手しました。
翌4月、この建設現場で重臣間による刃傷事件が起きました。忠政の側近・名古屋九右衛門が、重臣・井戸宇右衛門に切りかかり、逆に九右衛門が宇右衛門に切り殺されました。宇右衛門も九右衛門に加勢した武士と奮闘の末、ついに討たれ、宇右衛門の二人の弟も九右衛門らが差し向けた者によって殺されてしまいます。
井戸の遺族は、院庄の出雲街道の南側に井戸三兄弟を埋葬し、その上に松を植えたといいます。名古屋の遺族も道の北側に九右衛門を埋葬し、同じく松の木を植えました。2本の松は、道をはさんでにらみあう格好になったため、のちに「にらみあいの松」と呼ばれるようになりました。一方の松が栄えると、もう一方の松が弱るといわれています。この松は何回か植え替えられ、現在は昭和になって植えられたものが残っています。
この名古屋九右衛門こそ、出雲の阿国とともに歌舞伎の創始者であると伝説化された名古屋山三郎なのです。山三郎は蒲生氏郷に小姓として仕え、美男の勇士として知られていました。当時の小唄に「槍師 槍師は多けれど 名古屋山三は一の槍」と歌わたほどです。江戸時代の記録である『森家家臣各務氏覚書』にも「名古屋山三郎殿、御かたち美男にて之れ有り」と記されています。氏郷の死後、京都で浪人生活を送った後、忠政の妻・お岩の兄であるという縁で、忠政に仕えました。
山三郎(九右衛門)の死後、出雲の阿国が山三郎を歌舞伎舞台に登場させたといわれ、江戸時代以降、山三郎は阿国の愛人で美男の傾き者(かぶきもの…常軌を逸する人、奇抜・派手な格好をする人という意味。歌舞伎は傾きが転化したもの)として語り継がれ、さまざまな物語や舞台で脚色されてきました。ちなみに山三郎が院庄の刃傷事件で亡くなった同年同月に阿国が京都・四条河原で初めて歌舞伎踊りを踊りました。
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▼現在のにらみあいの松 |
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▲大正年間のにらみあいの松 ▼構城跡 |
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問い合わせ先
津山市文化振興課 0868-32-2121






